経験はプライスレス

こんにちわ。雪ん娘です。リニューアルです!日々色んな事がありますが経験はお金のかからない財産だと思います。だって経験は自分だけの物です。それを生かすも殺すも自分次第。そんな私の日々のつぶやきです。

長い間放置してしまいごめんなさい




こんばんわ。雪ん娘です。





かなり久しぶりにここに訪れました。
もう誰も訪問者もいなくなっちゃったんだろうなと思っていたのですが
変わらず訪問してくれた方もいるのでしょうか?
誰がというのは私には分からないのですが
人数はわかるので
申し訳ない気持ちになりました。





ここに来ると
生きていたあの子がいるので
どうしても来れなくて




もうあの子がいなくなってから8ヶ月もたつのに
まだ全然駄目なんですよね





ペットロスというのはこんなにも
心にぽっかり穴をあけ
あの子がもういないんだと言うことに
しっかり向かいあわなければ
立ち直れないものなんですかね?





私はあれから
猫ちゃんのネット上の可愛い写真も
見れなくなってしまいました




あの子の遺影は
手元供養をしているので
遺骨と一緒に毎日見て
話しかけて
ご飯もあげてるんですが



私は未だに一度も
泣いていないんですよね




駄目ですねぇ。ほんと。





だけどなんとなくですが
変わらない訪問人数の記録を見て
そろそろきちんと認めないといけないなぁと
思いました




あの子の最後をきちんと書くこと。
きちんと自分に向き合うこと。
そうしなければ私はきっと
また時間を止めてしまい
自分の心を誤魔化し続ける事を
続けてしまうような気がします





たかが猫ちゃんなんですけどね.....
あの子に対して持っていた私の愛情だけは
22年間変わらず
本当に愛しい信じられるものだったので。




他はだいぶ変わってしまいましたけどね(笑)





また猫を飼えばいいじゃない?
と言ってくれる人もいますが
あの子の変わりは猫でさえあればいい訳では
ないのです




あの子の変わりは誰にも出来ないし
そして
人間だってそうです
貴方の、誰かの変わりになる人なんて
どこにもいないんですよ




またポツポツとここにも訪れてみたいと
思います。




本当に長い間ほっぽらかしてしまいました




だいぶ遅くなりましたが
2023年は大変お世話になりました。
今年も変わらず改めて宜しくお願いいたします。




それでは今日はこの辺で。

心の居場所






こんばんわ。雪ん娘です





長いお盆休みももう終盤。
何一つ自分に向き合う事はしませんでした。
それで...
「向き合ってみようか」と今
このブログに書いてみようかとやってきました






今の私は心が空っぽという実感があります
日々何かを忙しくしてるのは
時間をただ埋める為だけだったりします





そこには何一つ
「楽しい」も「嬉しい」も正直なくて。





その代わり「辛い」とか「苦しい」「寂しい」
もありません





似たような十数年は過ごしてきましたが
その時と全く違う事は
「精神薬は1錠も飲んでいない」ってところです





そして私はまだ一度も
あの日から泣いていないんです





このお盆休みには片付けないとと思っていた
あの子の何もかも
トイレもあの子の色々な物も
結局まだ片付けられなくて





いつも通りの時間に追われる日常を
全く変わることなく普通に営んでいます





今日の心境の変化は急に
胸が苦しくなりました。





息苦しいというか
胸が締め付けられるような苦しさというか
特にきっかけは思い当たらないのですが...





自分で閉じ込めていた「感情」という物を
また開いてしまったのでしょうか?






感情なんて物は無い方がいいんです
ただ淡々と毎日のルーティンをこなすだけで
1日は終ってくれます




日々はその繰り返しで
1日1日は過ぎていき
そのうち私自身にも寿命という物がくる





全ての人が同じです
命には永遠という物は無いのですから。





その限りある時間を
「どう生きていくか?」が大事ですか?
それって本当なんですか?





誰もが表面では綺麗事を言いながらその実
自分のエゴが満たされていれば「幸せ」と
思ってるだけなんじゃないですか?





だけど。





1つだけ
「どう生きていくか?は大事だよ」と
私をひき止める物があります




それは。





「感情」という物の中の
「楽しい」とか「嬉しい」を感じていた時の
私は確かに




「幸せ」という物も同時に感じていたんです





今、私は「なんか胸が苦しい」って
しんどい~。逃げたい~。って思ってますが
質量という物は多分同じです




簡単に言うと
「幸せだなぁ~」って感じる気持ちと
「しんどい、もう嫌~」って思う気持ちは
同じエネルギーの大きさって事です





同じエネルギーの大きさなのであれば
「幸せだなぁ~」と自分が思える方向に
シフトを変えてあげればよいだけと
そういう事になるんでしょうか?





私にとってのあの子は
私の居場所でした
私の存在価値そのものでした






なんて大袈裟なと思うかもしれませんが
過去の事をもうどうのこうのと言うつもりも
ないですけど




私は本当に人間が怖いのです





それでも私は人に救われたというのも事実で。





なのでもし今
私と同じように何かの壁にぶち当たって
もがいている方がいたとしたら。





どうか救う側の人になってもらいたいと
思います






恨む側でもなく
自分の殻に閉じ籠る側でもなく
どうか救う側の人に。





綺麗な気持ちで私は書いていません
言っている私も相手は選びたいと思っています
そんな誰にでもな博愛なんて
私は持てません





私の「あの子」も他人から見れば
たかが猫です
私だって隣の家の猫ちゃんが例えば
死んじゃったとしても
ここまでダメージはくらいません





あの子が特別だからです
築いてきた歴史も絆もあるからです





自分にとっての「特別」な存在って
誰にでもありませんか?





そんないきなり「特別」は表れないし
簡単には見つからないと思います





だけどその「特別」はきっと
貴方の「居場所」になると思うんです
身体がではないですよ?心の居場所ですよ





その理由はまた今度書きたいと思いますが
今日の記事は
自分に向けても言える事だなぁと
思って書いています






心の居場所。
また私にも出来るんでしょうか?
でもそれには心自体をまた
持たなければ見つけられないですよね






人間関係もペットとの出会いも
ガチャみたいだなぁってふと
思ってしまいました。





オチも書けたようですので
それでは今日は
この辺で(笑)

本物と偽物






こんばんわ。雪ん娘です






だいぶ間が空いてしまいました。
自分の書いたブログに来る事が出来なかった
というのが本音です






あの子がいない毎日にただ慣れてきているだけで
心の中は何一つ変わっていない
日常が続いています





あの子とは
ケンカ別れをした訳でもないのに
嫌いで別れたとか
もう面倒見れないから他所にやったとか
そういう訳でもないのに





もう2度と会うことは出来ないんですよね
むしろ
大好きで大好きで会いたいのに
「後何日我慢したらまた会える」とか
そんな希望も何もない状態で





そんな感情をどう乗り越えればよいのか
分からないでいます





だからこそ
普通に生活をしています
自分で自分にきちんと向き合っていない
忙しい日々を送っています





正直
あの子がいない日常から
私の中の「愛」という物が
消えてしまいました





だからと言って
その変わりは
他の何も代替えはないのです





たかが猫ちゃんですか?
確かに私も
「猫」という生き物としてみたら
お外を歩いている猫ちゃんを見ても
「あ~猫だ~」としか見えません




でもそれは「人間」に対しても同じです




なので私にとってあの子は
猫でも人でもなく
「うらち」という名前の個性を持った
私にとても近しい存在の個体でした




そして誰もが
そういう存在の近しい「個体」が
側にいる筈です




それを「縁」というんだと思います




とっかえひっかえ
常に変わりが控えている訳ではない。





「縁」というのは
きちんと理由があって結ばれているのだと
思います




逆かな....
理由があるから「縁」として
近しくなっていくのかな?




そこは見えない部分なので分かりませんが。





なので私にとってのあの子は
確かに何かとても近しい魂の子だったのだと
感じざるを得ません





上手く言葉で説明するのは難しいですね





だけどあの子が死んでしまって尚
あの子から学んでいる事は
「縁」があったとして
その「縁」を自分から切るような真似をしては
いけない。という事です





逆に考えると
縁を切るような事をする相手は
本当に縁があるんですか?と思います





勿論、縁の中にも
いい縁、悪い縁とあるでしょう
見極めるのは自分自身ですが




私は
いい縁の中には必ず
相手を思いやる「愛」は隠れていると思います





私も
あの子の事はきちんと
現実として受け入れなければいけない
わかってはいるんですが.....,





生きていたあの子に執着があるという今です
あの子に会いたいよ。というのは
あきらかに私のエゴでしかないのです





命という物は輝いている
生きているという事はきっと奇跡です
星の数程の命が生まれ死んでいく中で
縁ある命と出会う事自体奇跡と思います





でも見極められないんですよ
終わって始めて気付く事の方が多いんです
たくさんのなんちゃってな
偽物の縁の方が断然多いんです





本物と偽物。
わかんないですよね(笑)





わかんないからきっと
人は出会いと別れを繰り返したり
するんでしょうね?





そしてそれは全て
「学ぶ為」だと思うのですよ







久しぶりに自分の心の中を書きました。







それでは今日はこの辺で。

7月7日 雨





こんばんわ。雪ん娘です





なかなかこのブログにも来れませんでした。
あの子の事を書いた足跡も見れなくて。





今日は7月7日です。
1年に1度願い事をする日。






今年の私の願いは。






あの子がどうか安らかでありますように。
あの子がどうか暗いところにいませんように。






あの子がどうか「死」というものを受け入れて
いますように。





そして私も





あの子の「死」を受け入れなければなりません。





今日は7月7日





あなたの願い事はなんですか?






それでは今日はこのへんで。

神様は乗り越えられない試練は与えないというけれど





こんばんわ。雪ん娘です






心の整理がまだつきません。
最愛のあの子がいなくてなってまだ2週間。
全然だめです






仕事も行ってるし
普通に生活のルーティンもこなしてるし
一見なんの支障もないように
見えてると思うのですが.....





あの子だけがいないのですね。
もうどこにもです






私はあの子の心臓が止まってから
また1度も泣いてないんです





毎日の生活に
何か一枚ベールがかかっているような。
私だけ生きている次元が違うような。
そんな感覚です





きっと現実と認めるのが怖くて
何かしらやることの予定を入れて
現実逃避してしまってる感じです





あの子の事は空に帰してお骨にはしてきました
手元供養をしています
普通にいつも通り私がご飯を食べるとき
「ご飯だよ~」ってご飯もあげています




あの子がくるまってた毛布も、トイレも、餌場も
片付けられなくて
そのままにしています




「うらちおはよ~」
「うらちただいま~」
「うらち寝るよ~」
「うらちご飯だよ~」




生きてる時と何も変わらずです。
だけど




あの子の姿だけが見えず
あの子に触れることも出来ず
形が変わって小さな骨壺に収まってしまった




2度と会えないし
2度とあの子とモフモフ遊ぶ事も出来ないし
気力だけで私は果たしてこの先
もつんでしょうか?





かなり深刻な状態だと分かってはいます
でも現実として心がまだ
受け入れていない。





ペットロス症候群は
ペットと別れた飼い主は誰もがなると聞きました





あの子に会いたいです
22年も日々私にべったりくっついて
モフモフを肌で感じて
常に私の側にいた子です




それが当たり前でした
私の帰るところはあの子の居るところでした





あの子は今どこにいるんでしょう?




あの子は
生まれたてでまだ目も空いてない
手のひらサイズの時から
共に過ごしてきた子で
気まぐれな猫という性格ではない子でした





生き物には永遠の命というのは
残念ながらありません
命あるものは必ず死ぬ。





わかってはいるんですが......
乗り越えかたがわからないでいます
だから
普段と同じようにしか出来なくて
泣くことも出来ていません




もしかしたら
心の整理が着いたら
あの子との最後の3日間を書きますと言いましたが
それは逆で




心の整理をつける為に
書かなければいけないのでしょうか?
あの子の死を認めて受け入れる為に。





まだ良くわかりません