経験はプライスレス

こんにちわ。雪ん娘です。リニューアルです!日々色んな事がありますが経験はお金のかからない財産だと思います。だって経験は自分だけの物です。それを生かすも殺すも自分次第。そんな私の日々のつぶやきです。

心の居場所






こんばんわ。雪ん娘です





長いお盆休みももう終盤。
何一つ自分に向き合う事はしませんでした。
それで...
「向き合ってみようか」と今
このブログに書いてみようかとやってきました






今の私は心が空っぽという実感があります
日々何かを忙しくしてるのは
時間をただ埋める為だけだったりします





そこには何一つ
「楽しい」も「嬉しい」も正直なくて。





その代わり「辛い」とか「苦しい」「寂しい」
もありません





似たような十数年は過ごしてきましたが
その時と全く違う事は
「精神薬は1錠も飲んでいない」ってところです





そして私はまだ一度も
あの日から泣いていないんです





このお盆休みには片付けないとと思っていた
あの子の何もかも
トイレもあの子の色々な物も
結局まだ片付けられなくて





いつも通りの時間に追われる日常を
全く変わることなく普通に営んでいます





今日の心境の変化は急に
胸が苦しくなりました。





息苦しいというか
胸が締め付けられるような苦しさというか
特にきっかけは思い当たらないのですが...





自分で閉じ込めていた「感情」という物を
また開いてしまったのでしょうか?






感情なんて物は無い方がいいんです
ただ淡々と毎日のルーティンをこなすだけで
1日は終ってくれます




日々はその繰り返しで
1日1日は過ぎていき
そのうち私自身にも寿命という物がくる





全ての人が同じです
命には永遠という物は無いのですから。





その限りある時間を
「どう生きていくか?」が大事ですか?
それって本当なんですか?





誰もが表面では綺麗事を言いながらその実
自分のエゴが満たされていれば「幸せ」と
思ってるだけなんじゃないですか?





だけど。





1つだけ
「どう生きていくか?は大事だよ」と
私をひき止める物があります




それは。





「感情」という物の中の
「楽しい」とか「嬉しい」を感じていた時の
私は確かに




「幸せ」という物も同時に感じていたんです





今、私は「なんか胸が苦しい」って
しんどい~。逃げたい~。って思ってますが
質量という物は多分同じです




簡単に言うと
「幸せだなぁ~」って感じる気持ちと
「しんどい、もう嫌~」って思う気持ちは
同じエネルギーの大きさって事です





同じエネルギーの大きさなのであれば
「幸せだなぁ~」と自分が思える方向に
シフトを変えてあげればよいだけと
そういう事になるんでしょうか?





私にとってのあの子は
私の居場所でした
私の存在価値そのものでした






なんて大袈裟なと思うかもしれませんが
過去の事をもうどうのこうのと言うつもりも
ないですけど




私は本当に人間が怖いのです





それでも私は人に救われたというのも事実で。





なのでもし今
私と同じように何かの壁にぶち当たって
もがいている方がいたとしたら。





どうか救う側の人になってもらいたいと
思います






恨む側でもなく
自分の殻に閉じ籠る側でもなく
どうか救う側の人に。





綺麗な気持ちで私は書いていません
言っている私も相手は選びたいと思っています
そんな誰にでもな博愛なんて
私は持てません





私の「あの子」も他人から見れば
たかが猫です
私だって隣の家の猫ちゃんが例えば
死んじゃったとしても
ここまでダメージはくらいません





あの子が特別だからです
築いてきた歴史も絆もあるからです





自分にとっての「特別」な存在って
誰にでもありませんか?





そんないきなり「特別」は表れないし
簡単には見つからないと思います





だけどその「特別」はきっと
貴方の「居場所」になると思うんです
身体がではないですよ?心の居場所ですよ





その理由はまた今度書きたいと思いますが
今日の記事は
自分に向けても言える事だなぁと
思って書いています






心の居場所。
また私にも出来るんでしょうか?
でもそれには心自体をまた
持たなければ見つけられないですよね






人間関係もペットとの出会いも
ガチャみたいだなぁってふと
思ってしまいました。





オチも書けたようですので
それでは今日は
この辺で(笑)

本物と偽物






こんばんわ。雪ん娘です






だいぶ間が空いてしまいました。
自分の書いたブログに来る事が出来なかった
というのが本音です






あの子がいない毎日にただ慣れてきているだけで
心の中は何一つ変わっていない
日常が続いています





あの子とは
ケンカ別れをした訳でもないのに
嫌いで別れたとか
もう面倒見れないから他所にやったとか
そういう訳でもないのに





もう2度と会うことは出来ないんですよね
むしろ
大好きで大好きで会いたいのに
「後何日我慢したらまた会える」とか
そんな希望も何もない状態で





そんな感情をどう乗り越えればよいのか
分からないでいます





だからこそ
普通に生活をしています
自分で自分にきちんと向き合っていない
忙しい日々を送っています





正直
あの子がいない日常から
私の中の「愛」という物が
消えてしまいました





だからと言って
その変わりは
他の何も代替えはないのです





たかが猫ちゃんですか?
確かに私も
「猫」という生き物としてみたら
お外を歩いている猫ちゃんを見ても
「あ~猫だ~」としか見えません




でもそれは「人間」に対しても同じです




なので私にとってあの子は
猫でも人でもなく
「うらち」という名前の個性を持った
私にとても近しい存在の個体でした




そして誰もが
そういう存在の近しい「個体」が
側にいる筈です




それを「縁」というんだと思います




とっかえひっかえ
常に変わりが控えている訳ではない。





「縁」というのは
きちんと理由があって結ばれているのだと
思います




逆かな....
理由があるから「縁」として
近しくなっていくのかな?




そこは見えない部分なので分かりませんが。





なので私にとってのあの子は
確かに何かとても近しい魂の子だったのだと
感じざるを得ません





上手く言葉で説明するのは難しいですね





だけどあの子が死んでしまって尚
あの子から学んでいる事は
「縁」があったとして
その「縁」を自分から切るような真似をしては
いけない。という事です





逆に考えると
縁を切るような事をする相手は
本当に縁があるんですか?と思います





勿論、縁の中にも
いい縁、悪い縁とあるでしょう
見極めるのは自分自身ですが




私は
いい縁の中には必ず
相手を思いやる「愛」は隠れていると思います





私も
あの子の事はきちんと
現実として受け入れなければいけない
わかってはいるんですが.....,





生きていたあの子に執着があるという今です
あの子に会いたいよ。というのは
あきらかに私のエゴでしかないのです





命という物は輝いている
生きているという事はきっと奇跡です
星の数程の命が生まれ死んでいく中で
縁ある命と出会う事自体奇跡と思います





でも見極められないんですよ
終わって始めて気付く事の方が多いんです
たくさんのなんちゃってな
偽物の縁の方が断然多いんです





本物と偽物。
わかんないですよね(笑)





わかんないからきっと
人は出会いと別れを繰り返したり
するんでしょうね?





そしてそれは全て
「学ぶ為」だと思うのですよ







久しぶりに自分の心の中を書きました。







それでは今日はこの辺で。

神様は乗り越えられない試練は与えないというけれど





こんばんわ。雪ん娘です






心の整理がまだつきません。
最愛のあの子がいなくてなってまだ2週間。
全然だめです






仕事も行ってるし
普通に生活のルーティンもこなしてるし
一見なんの支障もないように
見えてると思うのですが.....





あの子だけがいないのですね。
もうどこにもです






私はあの子の心臓が止まってから
また1度も泣いてないんです





毎日の生活に
何か一枚ベールがかかっているような。
私だけ生きている次元が違うような。
そんな感覚です





きっと現実と認めるのが怖くて
何かしらやることの予定を入れて
現実逃避してしまってる感じです





あの子の事は空に帰してお骨にはしてきました
手元供養をしています
普通にいつも通り私がご飯を食べるとき
「ご飯だよ~」ってご飯もあげています




あの子がくるまってた毛布も、トイレも、餌場も
片付けられなくて
そのままにしています




「うらちおはよ~」
「うらちただいま~」
「うらち寝るよ~」
「うらちご飯だよ~」




生きてる時と何も変わらずです。
だけど




あの子の姿だけが見えず
あの子に触れることも出来ず
形が変わって小さな骨壺に収まってしまった




2度と会えないし
2度とあの子とモフモフ遊ぶ事も出来ないし
気力だけで私は果たしてこの先
もつんでしょうか?





かなり深刻な状態だと分かってはいます
でも現実として心がまだ
受け入れていない。





ペットロス症候群は
ペットと別れた飼い主は誰もがなると聞きました





あの子に会いたいです
22年も日々私にべったりくっついて
モフモフを肌で感じて
常に私の側にいた子です




それが当たり前でした
私の帰るところはあの子の居るところでした





あの子は今どこにいるんでしょう?




あの子は
生まれたてでまだ目も空いてない
手のひらサイズの時から
共に過ごしてきた子で
気まぐれな猫という性格ではない子でした





生き物には永遠の命というのは
残念ながらありません
命あるものは必ず死ぬ。





わかってはいるんですが......
乗り越えかたがわからないでいます
だから
普段と同じようにしか出来なくて
泣くことも出来ていません




もしかしたら
心の整理が着いたら
あの子との最後の3日間を書きますと言いましたが
それは逆で




心の整理をつける為に
書かなければいけないのでしょうか?
あの子の死を認めて受け入れる為に。





まだ良くわかりません

人の気持ち





こんばんわ。雪ん娘です






愛猫の病状は一進一退。
良くもならなければ
悪くもなってない感じですが
やっぱり日に日に弱ってきてはいます





鼻からたまに血の塊が出てきています
鼻の炎症が慢性化されると
血の混じった鼻水になるそうです




鼻水もそうなんですが血も固まると
息が出来なくなるので
常に目は離せない感じです




濡れタオルを常に側に置いて
息がしやすいように拭いてあげる事しか
今は出来ないです




足腰も更に弱ってきてヨロヨロしているので
トイレいきたそうだなー
ご飯かなーと
だいたい分かるので抱っこして連れていきます




動物って
痛いとか苦しいとか全く言わないので
私が見てあげるしかないんですが
だいぶ介護しながらの自分の生活にも
慣れてきました




ただ1つ。
仕事に行ってる間が心配なので
出来るだけ帰ってくるようにはしています




これが人間なら介護休暇なども
取れるんでしょうけど
動物はまだまだそういう面では
認知はされていないのです




家族なんですけどねぇ。飼い主にとっては。




人間社会の中で過ごす時間よりも
今の私はこの子と過ごす時間の方が大切だし
何より私自身がこの子と過ごしている時間は
心がピュアでいられて幸せを感じるんです




人間って愚かですよね.....




きっと1人1人ときちんと向き合えば
皆、「いい人」だと思うんです



なのに
社会という枠の中にはいると
とたんに鎧を身に付け
自分を守る為に人を利用したり
傷つけたりする




だけど私もいけないんです
社会の貴方方とは関わり合いたくないので。
ってオーラがひしひしと出てるんでしょうね




なので利用されたり
攻められる側に常に私はいるような気がします




でも群れの中にはいっても
私は右へ習えはしないで
「それは駄目ですよ。
ここは変えていきましょうよ」と
言ってしまう方なので
その言葉に責任を取っていかないといけない




それは自分が大変になるだけなのです。
だから黙って
関わらないのが1番なのです
そこが私のずるさになってると思います




なのでせめて団体戦ではなく
私と縁のあるであろう
1人1人に対してなら
自分の言葉に責任を持てるので




私は1対1を好むんだと思います





まぁ猫ちゃんとの関係も1対1ですしね
この子も私以外の人間に見せない顔が
たくさんあります




私だけが見てるこの子の顔や性格
可愛いしぐさや笑わせてくれる態度とか(笑)




そして私にとってこの子が一番であるように
動物も家族の一員と暮らしている人は
皆がそうなんですね 




決して私だけが特別な訳ではないのです




なので。
同じ境遇の人
同じ経験をした人
分かり合えるんですよ




それだけではなくて
同じ価値観の持ち主
同じ趣味を持っている人
似たような経験をしてきた人




まぁ、全て経験ですよね
今まで積み重ねてきた経験の
引き出しが多ければ多い程共感できる
イコール
人の気持ちがより分かるようになるって事です




人の気持ちが分かれば
そうそう他人様を利用したり
騙したり
攻めたり
調子のいいことを言ったり
出来ない筈なんです





私は過去酷い心の病気をしました。
だから。
心の弱ってる側の人間の気持ちが分かるから
私は味方になってあげられると思い





それでこのブログは
「人の心」をテーマにしたんです




普段から群れている人。
猿山のボスのお取り巻きでよいしょしてる人
自分を有利にする為に他人を蹴落とす人
そういう側にいる人は
何も私でなくてもよいと思うので




1人で悩んでいる人
孤独に何かと戦っている人を
私は応援してあげたいと
その気持ちは今でも何も変わってはいません






それでは今日は
この辺で。

天使になんてなれない






こんばんわ。雪ん娘です







前回の記事からだいぶ開いてしまいました。
愛猫は奇跡的にだいぶ回復して
今まで通りという訳ではないけども
自力でお水を飲み
自力でご飯を食べれるようになりました






猫ちゃんの鼻の病気は治る事はないみたいです
鼻水に血が混じっている時もあります
抗菌薬を使いながら出来るだけ
本人がしんどくならないように
濡れタオルをいつも側において
静かに暮らしています





仕事の空き時間も10分でも20分でも
帰れる時間があれば家に帰ってきています
お陰で私は毎日クタクタ(笑)





それでも毎日毎日
私に寄り添うように側にいるこの子を
見ているのは幸せです





例えるならそれは
純粋で淀みの全くない
透き通った浄化された空間って感じでしょうか





何一つ「悪」という想念を感じない
時間と空間なんです





そう言えば私は何年か前に
「生きててくれてるだけでありがたい」って
そんな気持ちになった事を思い出しました





例え会えなくても会わなくても
生きててくれてるだけでいいんだって
心の底から無事を願っていたことがありました






人は忘れてしまうものですね(笑)





いつからか。
遠慮なく物を言い
わざと相手が傷つく言葉を言ったり。
「あーもう、話すだけ時間の無駄!」って
思ったり。





人間とはつくづく勝手な生き物と思いますw






今日は本当はペルソナ的な話をしようと
ブログに向かったんですが
脱線してしまいました(笑)





私にとって猫ちゃんとの時間は。
純粋な自分を思い出させてくれる時間。
きっと究極の「癒し」の存在なんでしょうね




猫ちゃんでもワンちゃんでも
飼った事がある方は分かると思いますが
彼らには全く
「悪」という想念が無いんだと思います
しかもある程度知能がある。





あまりにも純粋な空間だけに支配されると
自分も純粋にならざるを得ないんだなぁと
思っています






私はそれはやっぱり「愛」と思います





神様は人間という生き物が
いずれ競争社会や支配欲にまみれ
文明の進歩に比例して
破壊や争いを招いていく事を
始めから知っていたんではないでしょうか




だから
人間と共生していけるペットという位置の
動物を作った





人間を救う為じゃないですか?





きっとこの世界に不必要な存在なんて
何一つなく
全てバランスよく過不足なく
配置されている





そんな気がするんですよね。





そしてそのバランスを故意に崩すのは
いつでも「人間である」と
私は思ってしまう訳です





だから私は人間が一番怖いと思います
だって人は人を食べないのに
争ってばかりいるじゃないですか?(笑)






ジュラシックワールドの映画の中の
台詞を思い出しました






人間が恐竜や生き物の遺伝子を操作して
全く新しい恐竜を作ってしまいました
その恐竜は
食べるためではなく
殺したいから殺す。
その光景を見た主人公が




「食べてない。食べないのに
こいつはただ殺してるだけだ」
みたいな台詞を言ったんですね
とても怖い台詞だった事を覚えています






またまた脱線してしまいました(笑)






人と人が争うのは
一体どんな意味があり
どんな結末を迎える為なんでしょうかね?





きっと遺伝子に組み込まれてるんですね
「支配」とか
「強くありたい」とか
「負けたくない」とか
「認められたい」とか
そんな遺伝子なのかなぁと思っています。






それでは今日は
この辺で。