経験はプライスレス

こんにちわ。雪ん娘です。リニューアルです!日々色んな事がありますが経験はお金のかからない財産だと思います。だって経験は自分だけの物です。それを生かすも殺すも自分次第。そんな私の日々のつぶやきです。

良いマウント悪いマウント






こんばんわ。雪ん娘です







今日は同じ「マウント行為」でも
許せるマウントと許せないマウントの話し。






まぁ「マウント」というのは
上から下を見るというか
相手を「見下す」行為だとは思うのですが





私は「マウント」自体が悪い事だとは
思っていません






人が人に取る「マウント」は
2通りあると思います。





1つは
マウントは取るけども最終的には
山から降りて行って同目線で世話も焼くタイプ。





1つは
絶対に山からは降りてこないで
口だけ出してくるタイプ。





私は後者とはあまり関わりたくない。と
思ってしまうタイプです。





私的な少し曲がった考え方ですが
私も口を出す時それから
上から物を言う時もあるんですが





私は口を出す時=山から降りるもしくは
安全な所から外に出ようと思う時です




具体的には
口も出すけど行動もする。世話も焼く。





だから相手の為になることなら
多少はっきり言ってもよい。と
思っているんですねw






なので私と同タイプの人は
例えマウント合戦になったとしても受け入れます。





ところが。





口は出すしマウントも取るけど
絶対に山から降りてこない人。
要は口だけで行動がない人。





このタイプの方は
全く全く私には理解出来ないので
滅多に関わる事はありません





関わるどこではなくて
全く視界にも入っていません





上から目線でマウント発言してるだけで
口だけ出して何もしない人って
何がしたいんだろう?って思ってしまうのです





私にはそのマウントは
自分は出来る人間です!優秀なんです!
っていうただのアピールにしか
見えないんですよね




要は
「本当に相手の事を考えて」の発言ではない。
と感じてしまうので
承認欲求と自己肯定感が強い人だなぁと
思ってしまうんです。





なのできっと
マウントを取るご本人様が
「周りに認められたい」って
実は、寂しい人なのかなぁと
思ってしまう時もあります





だけど自分が認められたいが為に
人を優越感の道具として利用するんですかね?





きっと利用なんでしょうね?
だから絶対に山から降りてくる事はないって
そういう事なんでしょうね......





そして私はそういうタイプの方とは
口をきくことはほぼありません





そして何も
私が口をきかなくても
お取り巻きがいるか
本人がお取り巻きの1人になっているか
どっちかだと思うので




お取り巻きにお任せしてしまいます





まぁ簡単に言ってしまえば
どこにでも1人はいる
「お局様」ってところでしょうかね




本当は。




山から降りてきてなじみたいのかもしれないけど
それができないのは
きっと「プライド」ってものが
邪魔してるんでしょうね。





勿体ないなぁと思います
だって
マウントするって事は少なからず
他人に興味があって
他人を見てるって事じゃないですか?




私から見たら
他人に興味があるってすごいことですよ?





私なんて「マウント」こそしないですが
そもそも「マウント」をするほど
周りを見ていない(興味がない)って
事ですからね(笑)





そんな自分を変えてみようと
周りをちゃんと見てた時期もあったんですよ?
だけど疲れてしまってwww





私はやっぱり
あまり大勢の人との交流は出来ないみたいです






それは心を閉じてるとか壁を作ってるとは
関係がなくただ単に
パーソナルスペースの問題なんでしょうねと
結論にたどり着いた次第です





なので「マウント」を取れる方は
それだけ他人を見てる
視野も広いって事なんですから





もう少し違った形で
他人様と関わってはいかがでしょうか?と
思うんですよね





本当に勿体ないなぁ~と、思います






それでは今日はこの辺で。

世の中偶然はなく全てはきっと必然





こんばんわ。雪ん娘です






早いものでもう12月もあっという間に
終わりそうです
1年って本当に。あっという間ですね(笑)






今日は「振り返り」。






なんだかずっと走ってたような気がする
今年1年でした。





コロナの関係で
職場も変えざるをえなくなったので
今の職場は1月1日付けの入社なのですが
私的には「ものすごい量」の勉強をしました




1年で資格8種、国家試験1種は
結構頑張ったのではないでしょうか?(笑)




だけどそれよりも。





私は2019年の春に「記憶が戻った」と
過去記事にも書きましたが
まだまだ思い出せていない事もあったようで




ここにきでまた「総精算」がきているような
気がしています





記憶が戻った時には実は
本当にしんどかったんです




思い出さない方がよかったと。





思い出した事で私の中に
怨みや疑い、怒り、不信、
「生きてたって意味がないんじゃない?」とか
そーいう負の感情がたくさん出てきた事は
間違いありません。





だけど。





私は一旦受け入れて
少しづつでも浄化していけてたんだと思います。





2019年当時は
何かあるごとに
「どうしよう~?どーしたらいいかわからないよ~、ひどいよ~、なんで~?」と
ぴえ~んといちいち。
私は泣いていました。





ところが。
2022年の私はどうかというと
結構どうしたらよいかわからないながらも
気丈に立ち向かっていけています






勿論ひどいのは
その種をまいた人です。
よくもまぁあれだけ
人の名前を使って人のふんどしで相撲をとっていたんだなと....いうことばかりが
明るみに出てくる出てくるw





人間の表面と本質は
イコールとは限りません。





その場は誤魔化せたり上手くいったりしても
必ず後から、誤魔化した物は
精算ははいるのです





そして精算は
当然自分でやるものだと思うんですが
他人を利用して誤魔化して逃げるような人は
精算も当然ですが他人任せなんですよ





イコール評価されるのは、人間性ですね





私はなんだかんだ
精神疾患の病気を通して
本当に様々な「人間の中身」というのを
見れたような気がしています。





記憶が戻って、まぁ、しんどかったけれども
1つ1つきちんと向かい合って
受け入れてきた事で




私自身が実は変化していると
自分でも気づきました。





そして。





世の中はずるがしこくやったもん勝ち。
自分さえ守れれば他人を利用してもと
要領よく動ける人が勝ち。





そういう今は世の中だと
私はずっと思っていましたが





今の私は
「最終的には正しく生きている人。
人の事も考え、自分さえよければいいと
振る舞わない人」がやっぱり勝つのではないかと




そう思えるようにもなってきています





何故かというと
ものすごく長い物差しでしか計れないとは
思うんですが
「宇宙の見えないルール」が




最後はきちんと守ってもくれるのではないかと
思っているからなんです





そのルールは
すぐには結果は出ないと思います





そして私は
自分が「正しい」と思う生き方をしながら
そのルールを信頼してみようと思い始めています





だって、そんな
他人を騙したり利用したり
種をまいたのは自分なのに
一切自分で責任を取らないようなズルい人間が
最終的に「いい人生だった」って終わるなんて





やっぱりおかしいですよ(笑)





まぁ、そういう世の中なのだとしたら
私はもう2度と生まれてきたくは、ないですね





人は成長が出来る生き物です
私の愛猫ちゃんだって学習してます
動物だって学習して成長するのに
人間が出来ない訳がないのです




私は
過去のしんどかったことを思い出し
そこでいつまでも怒って恨んで執着して
自分の成長をそこで止めたくなかった。





数年かけて
ぴえ~んと泣かない自分になれたのは
やっぱり一度は受け入れてきちんと
浄化できてたからだと思っています




思い出してよかった。
思い出した時に逃げないできちんと向き合えて
よかった。
そこでまた時間を止めないでよかった。
そう今は思えています。





後は.......そうですね
私には「信頼出来る人がいるんだ」って
なんだかよくわからない自信に
助けられていましたかね?





そこは全く目に見えていない事なので
よく分かっていない部分なんですが
私が結構強く成長出来てるのは
その不確かな「自信」だったのは事実です(笑)





でもそこはまた別の話しになりそうなので





今日はこの辺で(笑)

孤独の定義





こんばんわ。雪ん娘です







最近はなかなか平日には
「ブログ書かないと~」な余力がなく
どうしても連休前の夜になってしまいます






今日は「孤独の定義」について。






Wikipediaによると





【孤独(こどく、英: solitude)とは、精神的なよりどころとなる人や、心の通じあう人などがなく、さびしいこと。


フレデリック・レイトン「孤独」(1890年頃)
「自分がひとりである」と感じている心理状態を孤独感(loneliness)という。


たとえば、物理的には大勢の人々に囲まれていても、自分の心情が周囲の人から理解されていない、と感じているならば、それは孤独である。


当人が、周囲の人たちとは心が通じ合っていないということに気付いていれば孤独である。


たとえ周囲の人々の側が、その人と交流があると勝手に思っていても、当人が、実際には自分が全然理解されていないと気付いていれば孤独である。】







だそうです。




私には長いことずっと「孤独感」はありました
だけど
「寂しい」とか「理解されていない」
っていうのは少し違うかな?と思います





このWikipediaの「孤独感」の説明は
全て「周囲の人々」が主になってませんか?




簡単に言うと
「私を誰も理解してくれない。なんて私は孤独なんだろう」って事ですよね?




それってすごく......人任せで.....
実は自己中心的な考え方じゃないですか?と
思ってしまいました(笑)





私が感じていた孤独感は
「周りに人は大勢いても私は1人」
そういう孤独感でした




それは不思議ですが
子供の頃も
学生時代も
ずっと長いことそう思ってきました





理解してもらいたいとか寂しいとかは
全く思った事はなくて。





友達もいた。彼氏もいた。家族もいました。
だけど私は1人だ。と感じていました。





時には「家族」という名ばかりの鎖に縛られて
籠の中の鳥みたいに
表に、自由に、全く動けない時もありました
身体がではないですよ?心がです。




なのでたくさんの人に囲まれていても
私は常に1人ぼっちでした




本当は。





籠の中の鳥にしたいのであれば
周りが動いてしかるべきなんです。
けれど実際に動くのは私。





イメージとしては
私の心が人質になっていたような物ですかね。
みせかけの「家族」という言葉に縛られた
がんじがらめ状態。





それは本当に「孤独な真っ暗な世界」でした。




なので私は
その環境を捨ててきて
それからは1人でも全然平気で
集団での仲良しこよしには
相変わらず全く興味もなく




自分から「輪」の中から外れていく事を
寂しいとも思わず。
むしろ私の事を理解とかしなくてもいいです
すみません。構わないで下さい。と





私の心を自由にさせて下さいと
思うようになりました。





そしてその結果
あんなに病んでいた私の心は
全く今は、病んではいないのですね





現在、私の身体は180度変わって1人です
だけど。




私の中に「孤独感」は全く無いんです
不思議です。





結局は
「孤独の定義」というのは
自分自身が作るもの。だと思っています





周囲の人間に理解されて
周囲に溶け込みたいと思うタイプの人に
Wikipediaな「孤独の定義」が
当てはまるのでしょう。




そしてそれは物凄く
一般的だと私も思います





私の孤独の定義は
きっと私の人生経験によって作られた物
もしくは。
元々持って生まれてきた物なのでしょう




今の私は身体は1人ですが
孤独ではありません




なので孤独であるかないかに
周囲に人がいるかいないかは
関係は無いと私は思っています





それが私が作った、私の。
「孤独の定義」です





何を持ってこんなに自信満々に
「孤独ではありません」と言えるんでしょうね?
そこもとても不思議な感覚なんですが(笑)





多分その正体は「心」と思います
「精神的に」と言った方が分かりやすいかもですが




前に書いた
私の近くにいつもポワポワ浮いている
目には見えないけど
確かに感じる
「ポワポワ君」がまた復活したみたいなんです




その「ポワポワ君」は
私に何かあったかくなる気持ちや
良いエネルギーを運んできてくれてるみたいです




なので私は
いつも満たされエネルギーも充電され
とても幸せな気分になれるので
「孤独感」を感じる事がないんですね(笑)





目には見えない感じるだけの世界。
貴方はどう思いますか?





それでは今日は




この辺で。

愛とは信頼のその先にある物






こんばんわ。雪ん娘です






今日は「愛」について。





私は今までけっこう「愛」について
このブログで触れてきました。





でも愛ってホントは何なんでしょう? 
人を愛するってどういう事なんでしょう? 





私は人の心を動かすのは「愛」でしかありえないと書いてきました
争いや力で一見心を動かしたように見えても
それは単に「従った」だけ。





本当の意味で「心」は動いていないのです





1人1人の愛の形は違うし
それは決して押し付けるものでも
奪うものでも、ましてやねだるものでもなく





ただ単に「与える」だけの物と
私は思っています





そこで著名人の「愛についての言葉」を
集めてみました



⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐


《愛は真実、真実は愛》

ジョン・レノン


《人が天から心を授かっているのは、人を愛するためである》

ボワロー


《あの人が私を愛してから、自分が自分にとってどれほど価値のあるものになったことだろう》

ゲーテ


《愛は、この世に存在する。きっと、ある。見つからぬのは愛の表現である。その作法である》

太宰治



《 人生で最も幸せを感じる瞬間というのは、他人から『愛されている』もしくは、『自分自身を愛すること』を実感できるとき。もしくは、自分と同じように誰かを愛するとき》

ヴィクトル・ユーゴー



《人間には『愛』がありさえすれば、幸福なんてなくたって生きていけるものだ》

ドストエフスキー



《 この世界で最も美しいものは、じつは見えたり聞こえたりするものじゃなく、心で感じるものなんじゃないでしょうか?》

ヘレン・ケラー



《 完璧だからその人を愛するんじゃない。完璧ではないにもかかわらず愛するんだ》

ジョディ・ピコー



《いっしょに泣いた時に、 はじめてお互いがどんなに愛し合っているのかが分かるものだ》

エミール・デシャン



《 最高の愛とは、魂を目覚めさせるようなもの。それは私たちの心に火をともし、心に平穏を与えてもくれるもの。それは、私があなたにどんなときも与え続けたいと願う、たったひとつのもの》

ニコラス・スパークス



《 愛する――それはお互いに見つめ合うことではなく、いっしょに同じ方向を見つめることである》

サン・テグジュペリ




《愛とは相手に変わることを要求せず、相手をありのままに受け入れることだ》

ディエゴ・ファブリ



《 真実の愛に代わるものなんてひとつもないさ。どんなに間違っていたって、愛は誰の元にだって、等しくやってくるんだから》

トム・ハンクス



《やりかたやハウツーなんてない。ただ愛することによってしか、愛し方なんてわからないんだ》

オルダリ・ハクスリー



《愛し愛されるということは、 両側から太陽を浴びるようなものだ》

デヴィッド・ヴィスコット



《 愛というのは、どんどん自分を磨いていくことなんだよ》

尾崎豊



《 愛されなかったということは生きなかったことと同義である》

ルー・サロメ



《愛する者といっしょに暮らすには一つの秘訣がいる。すなわち、相手を変えようとしないことだ》

シャルドンヌ



《愛の欠如こそ、今日の世界における最悪の病です》

マザー・テレサ


《あなたのために、たとえ世界を失うことがあっても、世界のためにあなたを失いたくない》

バイロン


⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐⭐





いかがでしたか?




何か貴方の心にぐっとささる言葉はありましたか?




私的には最後のバイロンの言葉は
深くていいなと思いました。





私も1つだけ言い続けてる言葉があります





私は愛というものは.........
「絶対に壊れないしゃぼん玉」だと思います





上っ面だけの薄っぺらいただの思いつきなような
愛の言葉なんて
「いつか必ず壊れてしまうしゃぼん玉」です





そこには信頼も未来も何も。
全く見えてこないからです。




ということは
「愛」は信頼のその先に生まれる物。
そういう事になりますかね?





信頼という土台があるからそこ
そこから生まれた「愛」は
未来に繋がるのかな?って思います





例え血が繋がった家族だからといって
信頼関係はきちんと築けている訳ではない。





信頼関係というものは意識して作るものです
例えば「どーでもいいや」と思うような相手とは
そもそも信頼関係を築いていくのも
めんどくさい....が先にきますもんね(笑)





そういえば
私はだいぶ昔の元カレに別れを告げた時




「あなたの言う 《あ》という言葉は
私にはもう《あ》って聞こえなくなっちゃったの。
だからもう一緒にいるのは無理よ」
そう言った事を思い出しました(笑)




だいぶ長いこと二股かけられてたみたいなんですよねーwwww
全く気づきませんでした(笑)




なので私は言葉なんてほんのお飾り。
真実は行動に表れると思うようになりました




まぁでも。
「言葉」というのも大事なツールですけどね




人は他人の心の中の事までは
120%全ては決して見えないですものね。





それでは今日はこの辺で(笑)

素敵な彼女の最後






こんばんわ。雪ん娘です







今日は「命」の話し。






少し前の記事に、私は本当に珍しく
仕事上のお客様の話を書きました





がんの告知を受けて
片方の肺を取り
それ以上の抗がん剤の治療は
受けないと決めていた彼女。





バイオリンの先生でピアノも弾く方でした
私は一目見た時から彼女のファンになり





その何もかもを受け入れた後のような
純粋で真っ白な心にとても
惹かれたのです




最近は忙しくて会いに行けていませんでした




そして........。





その彼女のご主人という方から電話がきました。
私はその瞬間全てわかりました。
「そうか、もう彼女はいなくなっちゃったんだな、と.......」





数ヶ月前は元気だったのに。
あー、でも
肺をとったところがまだ痛いって言ってたかな




後半年位で痛みも取れるだろうから
早くバイオリンを弾きたいなぁって
言ってたかな?




私も
「絶対聞かせてくださいね!」って
言ってたかな




本当に。





人として大好きになってました
あまりにも心が真っ白で純粋で
天使様のような優しい笑顔だったのは





何もかもの自分の運命を受け入れたからだったのでしょうか?





それとも





もうすでにあの世に逝ってしまう準備が
出来ていたからなのでしょうか?





そして。





「結婚はもう2度としたくないんです」って
言っていた彼女の夫は......






周りがうるさいので形では入籍はしたと言ってましたが
お互いがwinwinとなるようなルールの元で
生活していた実は「シェアメイト」だったんです





私は話しには聞いていたそのシェアメイトの
旦那様と初めて話しをしました





シェアメイトとはいえ
1つ屋根の下で共に暮らし
お互いの存在を受け入れられなければ
成り立たない関係ではありますので





とても優しそうな方で。
本心から彼女の死を悲しんでいました





そこにはきっと
他人には分からない
夫婦以上の信頼関係と絆があったのだと
感じました





「最後彼女は苦しまなかったですか?」
そう私が聞くと
「普段通り眠るように静かに逝ってしまいましたよ」と。





彼女の生前、2人で話していた事があります




「あの世の時間はあっという間らしいですよ?
だから少し先に逝って、ほんの少しあとから来る人を、待ってるだけじゃないですか?」って
私が言ったら





「そうだねぇ」って
彼女はコロコロ笑って答えてました






だけど1つだけ
私自身が後悔した事があって





数日前の事ですが
彼女と同じマンションの別のお客様のところに
訪問する仕事があったんです




せっかくだから「顔見て帰ろうかな?」って
気になったんですが
次の仕事が詰まっていたので
「また少し時間に余裕がある時に来よう」って
思って......




でももうその日は2度と
作れなくなってしまいました





こういう後悔は.....本当に.....
嫌ですね。






私は過去に執着するあまりに
早く寿命がきて欲しいと昔、望んでいました





あのままの私だったらきっと
彼女みたいに死を目の前にした時に
あんなに純粋で真っ白で静かで穏やかな
自分にはなれなかったと思います





今もまだまだなれないとは思いますが(笑)
そうなりたいと心がけるようには
なりました。





彼女も。






苦労も人一倍して
辛い目にもたくさんあって
理不尽な思いもたくさんしたでしょうに





私が彼女に貰った短い時間は
とてもピュアで優しい透明で穏やかな
時間でした





記憶に残る女性でした。
少女みたいな可愛らしい72才の女性でした。






それでは今日は





この辺で